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東京地方裁判所 昭和29年(ワ)4806号 判決

原告 本橋公子

被告 株式会社日本勧業銀行

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「被告は原告に対し金五十万円及びこれに対する昭和二十八年十二月十五日から完済まで年六分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする」との判決並びに仮執行の宣言を求め、請求の原因として次のように述べた。

「原告は、昭和二十八年十二月十二日訴外西川静夫から、金額は五十万円、支払人は被告銀行銀座支店、支払地及び振出地はいずれも東京都中央区、振出日は昭和二十八年十二月十四日、振出人は被告銀行銀座支店(同銀行支店長佐久間常夫署名)の持参人払式小切手一通(以下本件小切手と略称する。)を取得し現にその所持人であるが、同年十二月十四日原告の取引銀行である住友銀行人形町支店を通じて被告銀行銀座支店にこれを呈示して支払を求めたのに、被告銀行は右小切手については盗難の届出があるし、その上呈示期間を経過しているからとの理由でこれに応じないので、小切手金五十万円及びこれに対する小切手呈示の翌日である昭和二十八年十二月十五日から完済まで年六分の割合による金員の支払を求める。なお本件小切手を右西川から取得した経緯は次のとおりである。すなわち、原告は訴外大野屋旅館の女中であるが、昭和二十八年十二月九日右西川が大阪電具株式会社々長と称して同旅館に投宿した際、同人の世話をする係になつたことから同人を知つた。同旅館は東京都でも一流の旅館であつて、同人の服装、態度からも立派な実業家であるように見えたので、原告は同人を信頼した。そして同人が、原告の家庭の事情を聞いて、自分が原告に資金を出して旅館を経営させ、その家族の世話もするから二号夫人にならないかと申出たので、原告はそれを承諾して同人と情交した。本件小切手はその資金の一部として受領したのであつて、受領した日が同年十二月十二日であるのに、小切手の振出日が同月十四日になつているので、その理由を尋ねると、これは先日附小切手だが、支店長個人のものだから出してくれた。自分は支店長とは親友である。ただ銀行の信用の問題になるから、入金は十四日にしてほしい、とのことだつたのでそれで納得して、その出所について疑念を抱かなかつた。本件小切手の用紙は被告銀行のマークのスカシ入りで、被告銀行のみが使用するものである。」

被告の主張事実に対しては、「本件小切手の真実の振出日が昭和二十八年十一月十四日であつて、それが変造されて同年十二月十四日という記載になつていることは現在としては認める。本件小切手が被告銀行の振出後何者かに窃取されたものであること、訴外石井俊彦が訴外東京銀行協会を通じて右協会加入の各銀行にその旨通知したことは争わないが、本件小切手は被告銀行の自己宛小切手であつて、振出委託者である右石井はもちろん、被告銀行といえども支払委託を取消すことは法律上不可能である」と述べ、仮りに小切手金の支払請求が是認せられないときの予備的請求原因事実として次のように述べた。

「原告は右西川を一応信用してはいたけれども、本件小切手を同人から貰わなかつたならば情交を承諾しなかつたであろう。右西川は、昭和二十八年十二月十二日本件小切手が盗難品であり、かつ変造されたものであることを知りながらこれを秘し、あたかもそれが正規の流通過程において取得されたもので、なんら変造された部分がない小切手であるかのように装つてこれを原告に交付してその旨誤信させ、よつて同日原告をして情交することを承諾させ、原告と情交して、原告の人格権すなわち貞操を侵害して精神的な苦痛を与えたのである。

そして、被告銀行の当該係員は、小切手の数字のように権利義務に重大な関係があり、広く転々流通する間に変造される恐れのある数字を記載するに当つては、「昭和廿八年拾壱月拾四日」というように、変造され易い部分は漢字を使用しなくてはならないという社会通念上、取引上当然の義務を怠り、慢然と振出日欄に「昭和廿八年十一月拾四日」というゴム印を押してその変造を容易ならしめて、右西川の原告に対する不法行為に加功したのであるから、被告銀行は右西川と連帯して原告のうけた損害を賠償する責任がある。原告の右の精神的な苦痛に対する慰藉料として、被告銀行に対し一応小切手金額の全額である金五十万円及びこれに対する昭和二十八年十二月十五日から完済まで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。」〈立証省略〉

被告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、小切手金請求の請求原因に対する答弁として、「原告所持の小切手の振出日欄には昭和二十八年十二月十四日との記載があるが、それは変造されたものであつて、真実の振出日は昭和二十八年十一月十四日である。他の事実は全部認める。」と述べ、抗弁として、「本件小切手は、さきに述べたように振出日附が変造されているが、変造小切手については変造前のもとの文言に従つて責任を負うに過ぎないので、本件小切手の呈示期間経過後の呈示であるから被告がその支払を拒み得るは論を待たない、しかのみならず本件小切手は被告銀行が訴外石井俊彦の委託により振出して同人に交付したのであるが、同人はこれを何者かに窃取されたのである。そして原告は、これを原告が主張するような経緯で入手したのである。右西川が原告にいつた言葉は、客が旅館の女中に情交を求めるような場合にいう極めてありふれたものであつて、それを軽信して、そういつて渡された五十万円もの小切手の出所について疑念を抱かなかつたこと、しかも先日付ではあるし、よく見れば変造したものであることが分るのにその出所について疑念を抱かなかつたことには重大な過失があるから、被告銀行は原告に対し本件小切手の支払を拒むことができる。

それに、右石井が被告銀行に本件小切手盗難の旨届出て、被告銀行が訴外東京銀行協会を通じて同協会加入の各銀行にその旨通知することによつて本件小切手の支払委託は取消されているから、本件小切手の支払をする義務はない」と述べ、慰藉料請求の請求原因事実に対する答弁として原告の請求のように小切手金の請求と不法行為に基く損害賠償の請求とはその基礎を異にするので予備的に併合して請求することは許されない。仮りに許されるとしても、十日附に昭和廿八年十一月拾四日というようなゴム印を押すのはどこの銀行でも一般にやつていることであつて、昭和廿八年拾壱月拾四日というようなゴム印を用いなくてはならないという義務はない。右西川の原告に対する不法行為は被告銀行とはなんの関係もないことであつて、被告銀行は右西川の原告に対する不法行為に関して原告に対しなんらの責任を負うものではないと述べた。〈立証省略〉

理由

(一)  被告が、振出日の点を除き、原告主張のような小切手を振出したこと、本件小切手の振出日は昭和二十八年十一月十四日であつて、それが同年十二月十四日であるかのように変造されたこと、原告は昭和二十八年十二月十二日、変造された本件小切手を訴外西川静夫から取得し、これを同月十四日、被告に支払のため呈示したが、被告はその支払を拒絶したことは当事者間に争いがない。

本件のように、振出人が支払人を兼ねる自己宛小切手と、自己宛でない一般小切手との差違は、次の点に存する。すなわち、一般

小切手においては、振出人と支払人との間に、小切手法第三条所定の契約があるのが原則であるのに対し、自己宛小切手においては、振出人と支払人との間には、同一人格であるから、右のような契約はもちろん、なんらの実質的原因関係なく、振出人兼支払人と第三者との間に実質的原因関係があつて振出がなされるのである。しかし、実質的原因関係の差違は、小切手上の権利、義務その他の法律関係に、なんら影響を及ぼすことがない。小切手の振出人としての責任があり、支払人には支払人としての責任がある。振出人が支払人を兼ねるときは、振出人兼支払人は振出人としての責任と、支払人としての責任を、競合的に負担するにすぎない。換言すると、自己宛小切手の所持人は、振出人兼支払人に対して、振出人に対する権利又は地位を競合的にもつているだけである。一般小切手の所持人が振出人に対しても支払人に対してももつていない権利又は地位は、自己宛小切手の所持人も、振出人兼支払人に対してこれをもつていないのである。それ故自己宛小切手の所持人が、振出人兼支払人に対していかなる権利又は地位をもつているかを判断するには、振出人兼支払人が、振出人たる地位において所持人に対していかなる責任を負うか支払人たる地位においていかなる責任を負うかを判断すればよいのであつて、各別の責任を判断するに当つては、一般小切手の振出人、支払人の責任を判断する場合と、全く同一にすればよいのである。

まず、被告が、支払人たる地位において、所持人たる原告に対していかなる責任があるかを判断する。前述のように、自己宛小切手においては、振出人と支払人との間には、初めから、小切手法第三条の契約が存しないのであるから、仮りに自己宛小切手につき支払委託の取消しがなされるとしても元来支払人は、所持人に対して支払の義務があるのではなく、支払うか、支払わないかは、支払人の自由であつて、所持人は、支払人に対して、支払を期待することができるだけであつて、権利として、これに対して支払を求めることはできない。従つて被告は、支払人たる地位においては、原告に対して、なんら責任がない。

次に被告が振出人たる地位において、所持人たる原告に対していかなる責任があるかを判断する。小切手法第三十九条によると、適法の時期に呈示した小切手の支払がなされないときは、所持人は、同条以下所定の手続を経て、振出人その他の債務者に遡求権を行うことができる。そして、本件小切手の支払のため呈示すべき期間は同法第二十九条第一項により、昭和二十八年十一月二十四日までである。原告は、この期間内に本件小切手を支払のため呈示しなかつたから、支払を拒絶されても、振出人としての被告に対して遡求権を行うことはできない。本件小切手は、振出日が、昭和二十八年十二月十四日と変造されているけれども、振出人たる被告は、変造前に署名しているのであるから、同法第五十条により、変造前の文言としての、振出日が昭和二十八年十一月十四日との記載に従つてのみ責任を負うにすぎない。原告が本件小切手が変造されていることにつき善意無過失であつたとしても、変造後の文言に従つて被告の責任を問うことはできない。従つて、被告は、振出人たる地位においても原告に対して、なんら責任がない。

以上のとおりであるから、被告の抗弁をまつまでもなく、原告の被告に対する小切手金請求は失当である。

(二)  よつて進んで原告主張の予備的請求について考えるに、被告は小切手金の請求と損害賠償の請求とは請求の基礎を異にするから予備的に併合することは許されぬと主張するけれども、右二の請求は訴提起の当初から併合して一の訴状で訴を提起していることは本件訴状に照し明白であるから訴提起の後の請求原因を変更する場合ではなく被告の此の点の主張は失当である。次に被告銀行の当該係員が、本件小切手の振出日欄に、「昭和廿八年十一月拾四日」とゴム印を押したこと、「十一」の部分に「一」を添加することによつてその日付が「昭和廿八年十二月拾四日」と変造されたことは当事者間に争いがない。そこで、当該係員が、右のゴム印の代りに、「昭和廿八年拾壱月拾四日」というゴム印を押していれば、このように容易に変造されることはなかつたということがいえる。事実それが望ましかつたのだけれども、このことから直ちに、当該係員に過失があつたということはできない。人は一定の結果の発生を未然に防止するために、一定の作為又は不作為を社会生活上の義務として要求されることがあるけれども、必ずしもすべての場合に一定の結果の発生を未然に防止するために、完全無欠な手段を構ずる義務があるのではない。換言すると、これだけのことをすれば、結果発生防止の手段として、人間の構じうるものとしては完全無欠であるという場合に、必ずしもそれだけのことを全部する義務があるわけではない。その間隙があつて、その間隙は、一定の結果発生防止のため完全無欠な手段を構ずることが、かえつて他の社会生活上に悪い結果をもたらすことになるため法益均衡の見地から、積極的に許容されていることもあるし、その間隙はない方が望ましいが、あつてもよいと消極的に許容されていることもある。消極的に、しなくてもよいと、許容されていることをしなくても、義務違反にはならず、そのために一定の結果が発生しても、その結果について過失の責任はない。

本件について、被告銀行の当該係員に、「十一月」ではなく、「拾壱月」となつているゴム印を使用する義務(業務上のものであれ社会通念上のものであれ)があつたか否かを考えてみる。三井銀行、三菱銀行、第一銀行、富士銀行、東京銀行、三和銀行が、我が国第一流の大銀行であることは公知の事実であるが、同銀行等が、成立に争いのない乙第九号証の一ないし六の小切手のように、振出日欄に、「拾壱月」ではなく「十一月」というゴム印を押した小切手を振出していることと、証人佐久間常夫の証言により、被告銀行銀座支店でも小切手に「十一」というゴム印を以前から使用していたと認められることから判断すると、銀行業務の実際においては、小切手に「拾壱」ではなく、「十一」というようなゴム印を使用することも、広く一般に許容され得べきものとして業務上の事務処理が為されていたと認めるのが相当である。証人井上勝馬の証言によると、同証人が銀行において小切手を数多く扱つていた時代(同証人が昭和二十五年頃銀行実務から離れたことと、同証人が銀行において相当上級の地位にあつたことが推認され、従つて自ら小切手を数多く扱つたのは、昭和二十五年より相当前であることが推認されるので、少くも終戦以前の時代)には、「十一」ではなく「拾壱」というゴム印が一般に使用されていたことが認められ、また証人松村正一の証言によると、前記銀行等と同程度の大銀行であることは公知の事実である住友銀行では、昭和二十八年当時も、「十一」というゴム印は小切手には使用せず、専ら「拾壱」というゴム印を使用していたことが認められるけれども、このことから昭和二十八年当時において「拾壱」ではなく「十一」というゴム印を小切手に使用することが銀行業務の実際において一般に許容され得べきものとして業務上の事務処理が為されていたという前記認定を覆えして、小切手には「十一」ではなく「拾壱」というゴム印を使用する業務上なり、社会通念上なりの義務があつたと認めることはできない。してみると被告銀行の当該係員が本件小切手に「昭和廿八年十一月拾四日」というゴム印を使用したために、「昭和廿八年十二月拾四日」と変造されたことについて、同係員には過失がなかつたわけであり、従つて、本件変造小切手が訴外西川による原告に対する不法行為の手段に供されたとしても、同係員はその結果に対して責任なく、同係員の使用者である被告にも責任がない。原告の被告に対する慰藉料請求も失当である。

(三)  よつて原告の被告に対する請求はすべて棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 加藤令造 田中宗雄 間中彦次)

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